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この小説について

MF文庫Jに送って
見事、一次審査落ちしたので
ここに晒しておこうと思う


簡単なあらすじは

九月十五日の午前十時十二分
駅のホームから女性が転落する。
転落した女性、五木奏海と
たまたまその場に居合わせた五人の男女たちの物語


ジャンルは主人公ごとに変えて
なるべく文体も変えようとしたりもしたけど
規定の150ページ以内に収めるには正直無理のある話

いつか加筆修正しようと思うし
それぞれのキャラクターで一本ずつ小説を書こうと思ってる
現に今(2012/09/13)は主人公の一人
一条小夜子を中心にした青春ものを書いている途中

そもそも、この小説自体がそれぞれのキャラクターたちの物語のプロットみたいなものになっているのだから、切り離せば一本ずつ書けるのも当然と言える
ただ、その場合は一から書き直すつもりだから
今回の小説の世界とはパラレルワールドと言うことになるだろう


投稿用に書いたデータを置いてるだけだから
正直読みづらいとは思う

コメントは本館ではなくここでお願いします

以上

シーラさん

十時十二分の五重奏

 十時十二分の五重奏

 十月二十四日、土曜日。
 一人の少女が、駅のホームにあるベンチに腰をかけていた。
 周りに人は、ほとんどおらず、ベンチに座っているのも彼女だけである。
 少女は、薄小麦色に焼けた肌に、整った顔立ち、きりとひそめた眉、そして凛然とした、どこか近寄りがたい雰囲気を持っているのだが、なかなかの美人であった。
 そんな彼女は、ひざの上で頬杖をつきながら、暇そうに電車を待っていた。
 と、少女は突然、立ち上がった。
「やっほー、夕美ちゃん」
 少女は到着した電車から友人が降りる姿を見つけ、声をかけた。
 セミロングの金髪に、真っ白な肌、指輪やネックレスと、まるで対照的な少女である。
「よう、お待たせ」
 一条小夜子と、柳瀬夕美の二人であった、
 二人はこの日、有名なバイオリニスト、五木奏海のコンサートに招待されていた。
 彼女たちがこのホームにいるのは、そのコンサートへ向かう途中だからである。
「次の電車っていつだっけ?」
 と、夕美はホーム内にある時計を見ながら、小夜子にきいた。
「二番ホームで二十五分発の電車かな」
 それから二人は、駅のホーム内にある陸橋を渡り、別のホームへと移動した。
 十月も、残すところあと一週間となり、それもあってか時刻は夕方の五時頃なのだが、駅名標や時計、自販機なども含め、辺りはすっかりとセピア色に染まっていた。そうした、どこか哀愁のある景色や、日が暮れる速さには、秋らしさを強く感じさせるものがあった。
 小夜子と夕美の二人は季節に合わせた服を着ているのだが、それとは関係なしに、この夕暮れに染まった世界で、彼女たちもまた、そうした景色の一部になっていた。
「あれ? 嬢ちゃん、もしかしてポカリの子か?」
 背後から男の声が聞こえ、小夜子は振り返った。
 そこには、三十代半ばほどの、無精ひげが良く似合う男と、ぼさぼさの髪に、能面のように落ち着いた表情の、妙齢の美女がいた。
「あっ! あのときの!」
 と、二人の顔を覚えていた小夜子は、思わず声を上げた。
 忘れるはずもない。あの時、誰よりも早く、そして速く動き、線路に降りて五木奏海を助けた、三滝春彦と03の二人組みだ。
「嬢ちゃんたちも、これからコンサートに行くのか?」
「はい。お二人もですよね?」
「もちろん。だけど、俺たちだけじゃないっぽいぞ?」
 小夜子は、春彦が自分の肩越しに何かを見ていることに気がつき、その視線の先を見た。
 その視線の先には、だいぶ後退して薄くなった頭に、大きなレンズの眼鏡、中肉中背の体型をしているが、あまり冴えないという印象がない中年の男性と、彼とはまるで正反対にファッションセンスとスタイルがよく、気が強そうではあるが格好の良い女性がいた。
 四葉重治と、彼の親友である軽澤香穂である。
「おおっ! おっさんじゃないか!」
 春彦は手を振った。
「いやあ、おっさんがいなかったら俺が電車に引かれてたからな、ほんと助かったよ」
「ははっ、そんな、おおげさな」
 春彦の言うように、重治が電車を止めていなければ、春彦が五木奏海の身代わりになっていたかもしれない。そのこともあって、春彦は重治の行動に心から感謝をしていた。
「いえ、あなたの的確かつ迅速な判断あってこそです。このご恩は私も忘れません」
 03も頭を下げた。彼女もまた、重治には感謝してもしきれない思いであったからだ。
 すると、それを見た香穂が、重治をひじで軽く小突いた。
「なんだよ。あたしの知らないところでかっこいいことしてんじゃん」
 と、香穂は少しいじわるそうな目で重治を見た。
 それからしばらくの間、小夜子たちは雑談をしながら電車を待った。
 いくらか時間が過ぎた頃、若いカップルが改札口を通った。
 背が高く、気難しそうな顔をしているが、優しそうな男は、二宮大樹であった。
 そして、隣のふわふわとした栗毛が特徴的な、かわいらしい女性は霧島小枝である。
 二人は、仲よさそうに手をつないで歩いていた。
「あれ? もしかして、今日は集まって行く約束でしたか?」
 小夜子たちを見つけて驚いた大樹は、近づいてそうきいた。
「いいや、偶然あつまっただけだよ」
 大樹の問いに、春彦が答えた。
「……ねえ」
 ふと、彼らの様子を見た小夜子は、夕美にだけ聞こえるように声をかけた。
「なんか、みんなカップルで来てるじゃない? 私ら、浮いてないかな」
 言われて、夕美は正面の光景を眺めた。
 夕日に染まった駅のホームには、長く、黒い影が、いくつも立っている。
 そして、その影たちは、どれもが楽しそうに、会話をしていた。
「……いやあ、少なくともそういう趣味の人とは思われてないと思うよ?」
「そういう意味できいたわけじゃないけど、……まあ、気が楽になったわ」

 照明によって煌々と照らされる舞台。
 チューニングのためにラの音を出す、正装した演奏者達。
 その音を聴きながら、期待に胸を弾ませる観客達。
 しかし、その彼女はまだ、舞台に上がってはいない。
 それでも、観客はもちろんのこと、楽団員たちですら、まるで幼い子供のような輝きを瞳の奥から瞬かせ、彼女の登場を今か今かと待っていた。
 陸夫は、これから彼女が向かう表舞台を、薄暗い舞台裏から眺めていた。表舞台は眩しいぐらいに輝いており、そこに奏海が立つ姿を想像しているのか、笑みをこぼしていた。
 そんな陸夫を見ていた奏海は、振り返り、彼に聞かれないように大きく深呼吸をした。
 大丈夫、言える……。
 ううん。言うって決めたんだ……。
 奏海は、着ていたコートを脱ぎ、黒いドレス姿になった。
 露出させた真珠のように白く美しい肩と、艶やかな烏羽色の髪が相まって、まるで美人画を見ているような、この世のものとは思えないような美しさが、今の奏海にはあった。
「ねえ、陸夫くん」
 奏海は、少々上ずった声で言った。
 奏海に呼ばれた陸夫は、彼女のほうへと顔を、体を向け、彼女の姿を見た。
「なんだい、奏海」
 バイオリンと弓を持っている左手に力が入らない。
 胸を押さえている右手が震えてしまう。
 それでも、奏海は意を決して振り返った。
 スカートの裾がふわりと浮き、じっと陸夫の目を見つめる奏海の瞳は、強く煌いていた。
「あのね、陸夫くん。……わたしね、聞いて欲しいことがあるんだ」
 舞台に上がるよりも、奏海は緊張をしていた。
 舞台で演奏するときよりも、奏海は顔を赤らめていた。
「……それは、今言わないといけないことかい?」
「うん。今じゃなきゃだめなの」
 奏海は即答した。伝えたい想いがあるからこそ、彼女は即答をした。
 いや、それ以上に、ここまで言って、奏海はいまさら後には引けなくなっていた。
「あのね、……わたしね」
 言いながら、奏海は徐々に顔を下に向けた。
 それからわずかな間を持って、奏海は優しく微笑みながら、顔を上げた。
 もう既に、彼女は決心をしていた。
 そういう顔を、奏海はした。

 わたしね、陸夫くんのことが好き。
 あなたのことが大好きなの。
 いつも平気なふりしてしゃべっているけど、
 あなたといると、胸がときめいて、苦しくなっちゃうの。
 あなたといると、息苦しくなっちゃうの。
 それでも、わたしね、息もできなくなるくらい……、あなたのことが……、好き。

 それから、二人の間に重い沈黙と、ずいぶんと長い静寂が流れた。
 しかし、その空気は思わぬ人物によって破られた。
「奏海さーん。準備できたらスタートしー……たいんですけど、いいですか?」
 一部始終を見ていたのか、見ていなかったのか。スタッフが離れた所から声をかけた。
「ええ、すぐ行きます」
 言って、奏海は陸夫のほうに向き直った。
 まっすぐな瞳で見られ、陸夫は一度、目をそらした。
「返事は今のほうがいい?」
「……うん、お願い」
 そう言われ、突然のことに戸惑ったのか、陸夫はどこか気恥ずかしそうにしていた。
 それから、よし、と陸夫は小さく呟くと、そっと奏海の手を取った。
「……俺も、奏海のことが好きだ。友達や、幼馴染としてじゃなくて、恋人として一緒にいたい。奏海を、幸せにしてやりたい」
「……うん」
 陸夫の言葉を聞いた奏海は、再びうつむいた。
「奏海? 大丈夫か?」
 本番前に涙を流してはいないかと心配し、陸夫は奏海の顔を覗き込んだ。
 と、奏海が陸夫の頬に、小さく口づけをした。
「ありがとう。それじゃあ、私、行くね?」
 軽快な足取りで、奏海は舞台へと向かった。
「奏海。こんな時に告白して、……もし、断られたらって考えなかったのか?」
「断られても、コンサートは失敗しないよ。私の曲はほとんど全部、陸夫くんへの想いを譜面につづったラブレターだから」
 そう言て、五木奏海は煌く舞台に立った。

 誰もがその音楽に魅了された。
 五木奏海の曲、彼女の演奏には、人の心に希望や生きる活力を芽生えさせる力がある。
 それは、彼女自身が想像する未来への希望が、彼女の想い人に対する強い気持ちが、そうさせていた。それほどまでに、彼女の純粋な心は人に影響を与えていた。
 心に響くメロディーと、心を躍らせるリズム。
 幼い子供が踊るかのように、曲に合わせてぴょこぴょこと跳ね、くるくると踊り、ふわふわと舞うその姿は、なんとも楽しげで、妖精のようであり、天使のようであった。
 観客も、楽団員も、彼女の姿を見ていると心からこの公演を楽しむことができ、長い時間は、あまりにも短く過ぎ去ってしまった。
 そうして、プログラムに組まれていた曲は全て演奏し終わったときのことであった。
 奏海はマイクを手に取り、一度、小さく咳払いをした。
「……えっと。本日はお忙しい中お越しいただき、誠にありがとうございました。それから、先月は私の都合で急遽コンサートを延期させてしまい、申し訳ありませんでした」
 言いながら、奏海は目で楽団員に指示をした。
「実は、コンサートの前の九月十五日、私は熱中症で、駅のホームから線路の上に転落してしました。……その私を、その場にいた五人の方々が、助けてくださいました」
 楽団員たちの中から、四人が前に出た。
「私は……、自分を殺していた頃の反動もあって、大人になってからは自分のやりたいように、自由に生きてきたのですが、それは沢山の人たちの支えがあってこそ出来ることだと、彼らに助けられた時に思い知らされました」
 四人は、奏海の左右に並び、奏海の合図を待った。
「今日は、その勇気ある五人の方々に、感謝と尊敬の気持ちを込めて、今夜限りの曲を用意させていただきました。……聴いて下さい」
 四人を見た奏海は、マイクをスタッフに渡し、観客席を眺めた。
 そこには、あの駅のホームにいた五人がいる。
 一条小夜子。
 二宮大樹。
 三滝春彦と03。
 四葉重治。
 五木奏海は彼らを見た。
 そして、タクトを振るように、バイオリンの弓は、高々と振り上げられた。
「十時十二分の五重奏!」

その後

一条小夜子のその後

「それで、……どうなったの?」
 夕美はいつの間にか、小夜子の話を一語一句聞き逃さないように、真剣に聞いていた。
「そのあと救急車が来て病院に向かっていったんだけど、私が知ってるのはそこまだね」
 小夜子は、九月十五日の駅のホームで起きた出来事を、思い返しながら夕美に話した。
「はあ……。それにしても、そんなことがあったとは……。どうりでコンサートが中止になるわけだ。……五木さん、大丈夫だろうか」
 と、実際に本人に会った事があるわけではないのだが、それでもファンの一人として、夕美は心から五木奏海のことを心配した。
「ほんとに五木さんのこと好きなんだね」
 あまりそんな様子の夕美を見る機会がないため、小夜子は少々あっけにとられた。
「まあねぇ。なんていうか、あの人の曲を聴いていると、気分が軽くなると言うか、心の奥にある、『人生を楽しまなきゃ』って気持ちが沸いて出てくるんだよね」
 とんとん、とんとん。とんとん、とととん。
 夕美は指で机を叩きながら、五木奏海が作る音楽のリズムを刻んだ。
「ああ、それちょっと分かる。つい体がリズムに乗っちゃうよね」
「……それで、小夜子」
 ぴた、と夕美は指を止め、小夜子を見た。
「なんでその話を、今、するわけ?」
 夕美がそう言った時、小夜子はにやりと不敵な笑みを見せた。
「ふっふっふっ……。実は、その五木奏海さんから手紙が来たのよ」
「……は?」
 ぽかん、と夕美は間抜けな顔をした。
「要約すると、『命を救ってくれてありがとう。お礼に次回のコンサートのチケットをあげるよ』って言う内容の手紙」
「……え?」
 小夜子はかばんから封筒を取り出し、その中から二枚のチケットを出した。
「ということで、今ここにチケットが二枚あるわけだけど、……当然、一緒に行くよね?」
「行くっ! 行かせてください!」
 と、今度は小夜子の言葉に、夕美はつい大きな声を出した。
 いくら教室内が騒がしいとはいえ、彼女の特徴のある声は誰の耳にも入る。もっとも、それによって起きる沈黙など一瞬であり、やはり誰も気にも止めていない。
 そうして小夜子は、十月二十四日にある五木奏海のコンサートのチケットを手渡した。


 二宮大樹のその後

 駅での一件の後、二宮大樹は大学にも行かず、アパートに戻った。
 大樹は台所の戸棚から茶筒を取り出し、食器棚にある湯飲みに茶を入れた。いつもの習慣でそうして、ふう、と一息ついた大樹は、しかし冷静になろうと懸命に努力しているだけで、貧乏ゆすりをしている辺り、変わらず心中は穏やかではなかった。
 五木奏海のことはすっかり忘れ、代わりに駅のホームで見た、大樹の恋人である霧島さえが、石田と一緒にいたことを思い出した。すると、自分でも驚くほど、大樹の頭の中を嫉妬心と絶望感がぐるぐると渦巻くのである。
 いくら、先に惚れたのが小枝のほうだったからといっても、さすがに今まで彼女のことを考えなさ過ぎた、と大樹はひどく後悔しながら、同時に石田を心底憎んでいたのだ。
 ふと、大樹は小枝がここに戻ってきたとき、どうするべきか、何をするべきか、何を言うべきかを考えた。彼女を問い詰めてここから追い出すか、それとも問い詰めてもこのまま関係を続けるか、あるいは何も見なかったことにして忘れてしまうか。
 大樹は、もはや正常に物事を考えられないでいた。それだけ激しく動揺していたのだ。
 そうして頭を回していると、突然、大樹のピッチがけたたましい音を鳴らし始めた。
 こんなときに一体誰だ、といらつきながらも、大樹は電話に出た。
『よう、大樹か? 今、市内のほうにいるんだけどよ。とんでもないことになった!』
 友人、中林健二が、もともと声は高いが、いつもよりも甲高い声で叫んでいた。
「……とんでもないことってなんだよ」
『石田と霧島さんが市内にいたんだけど――』
 と、通話はそこでぷつりと途切れた。
 大樹が通話を切ったからであった。
 周りの人間が思っている以上に、彼自身が思っている以上に、彼は打たれ弱かったのだ。

 部屋の鍵が開く音がした。
 入口の扉が開く音がした。
 靴音と、袋がこすれる音が聞こえ、それから、
「ただいまー」
 と、高く、透き通っている、心地よい声が聞こえた。
 いつの間にか眠っていた大樹は、その声を聞いて、体を起こし、大きく伸びをした。
「あれ? 寝てたの?」
 ふわふわとした栗毛を揺らしながら、小枝はなにやら機嫌よさそうにそう言った。
 そこで、大樹はやっと覚醒した。はっと我に返り、部屋にある時計に目を向けると、アパートに戻った時は一時を指していた時計の針が、すでに午後六時を過ぎていた。
「あははっ、寝癖ついてるよ」
 部屋の電気をつけ、いつも通り接してくる小枝が、このとき大樹には恨めしく思えた。
「小枝、ちょっと話がある」
 と、切り出した大樹は、やはり、このままの関係でいたくはなかった。徹底的に問い詰めて、その上でどうするかを考えよう、と大樹は感情をあまり表に出さない人間だからこそか、目まいがしそうなほどに動悸が激しくなる中で、そう決意していた。
「ふふっ、実はちょうど私も話があるのよ」
 小枝はいじわるそうな笑みを浮かべた。
 石田とのことだろうか、と大樹の脳裏にあの下品な笑い顔が浮かび上がった。
 大樹と小枝の間には、小さなちゃぶ台がある。
 大樹は座ったままの体勢で座椅子をちゃぶ台に近づけ、小枝はちゃぶ台の前についた。
 今まで現実から目をそむけ続けてきた大樹であったが、このときばかりは、怒りとも、嫉妬ともとれる感情を胸に、現実と向き合おうとした。
「あ、あのな……」
「じゃーん! これなーんだ!」
 と、話を切り出そうとした大樹の声が聞こえなかったのか、それとも端から聞く気がなかったのか、ずいぶんと元気な声を出しながら、小枝は大樹の言葉を遮った。と同時に、手に持っていたビニール袋から、渋い色合いの木製の筒を取り出した。
「……な、なんだよ」
 突然のことに動揺しながらも、大樹は彼女が差し出し筒を見た。
 木製の筒には、舞い降りる桜の花弁と、それを見上げる柴犬が彫られてある。
「……茶筒、か?」
「そうです。茶筒です」
 小枝は変わらず、にこにこと微笑みかけている。
 それから、大樹は茶筒を手にとった。よく見てみると、筒の底には小枝のイニシャルが小さく彫られてあった。
「まさか、これって小枝の手作りなのか?」
「そうです。それと中も見てみて」
 茶筒を開け、中を見ると、すでに茶葉が入っていた。
「実はそのお茶っぱも手作りです」
「……はい?」
 茶葉も手作りしたといったかこの女。茶筒を手作りしたということにも驚いたが、茶葉をどうやって作ったのか、大樹にはにわかに信じられなかった。
「お誕生日、おめでとうございます、旦那さま」
 と、小枝は仰々しく深々と頭を下げた。
 その丸まった小さな背中を見て、一瞬、大樹には彼女があの和菓子屋の制服を着ているかのように見えた。そして、事態を飲み込めないでいる大樹は、言われて返事もできず、しばし阿呆のように口をあけていることしかできないでいた。
「あ、やっぱり忘れてたでしょ。自分の誕生日」
 言われて、確かにそうだ、と大樹は思い出した。もっとも、そうしてそのことを忘れていた原因の一つは、彼女のことで頭が一杯だったからである。
「ちょっ、ちょっと待て。茶っぱも手作りって言ったよな。どこで作ったんだよ」
「それは、ほら、私って今、和菓子屋で働いてるじゃない?」
「……ああ、そうだな」
「和菓子屋で和菓子作ってるんだから、おいしいお茶屋さんを知らないかって店長に聞いて、それで紹介してもらったお茶屋さんでお茶を作る手伝いをさせてもらったのよ」
「いつ頃から作ってたんだよ」
「去年からよ」
 と、小枝は平然と即答した。
 同時に、それほど前から準備をしていたことに、大樹は驚きを隠せなかった。
「あ、でもね、茶筒を作るのに一番時間がかかっちゃってね、お茶っぱは五月の収穫のときに少し分けてもらってたんだけど、茶筒は昨日やっと出来上がったのよ。それとね、お茶っぱを分けてもらう時に賞味期限のことを聞いたら、五月収穫の一番茶は十月が賞味期限って聞いたんだ。でも、ほら、大樹くんの誕生日って九月だし、かといって三番茶をあげるのもなーって考えてたら、結局、一番茶になっちゃって」
「……なんでそこまで手間かけてんだ」
「だって、大樹くんてお茶好きでしょ? だからお茶っ葉まで作ったら喜ぶと思って」
「いや、そうじゃなくて」
 色々と言いたいことはあったが、大樹が一番聞きたいのは、石田と関係を持っているというのに、どうしてそこまで尽くしてくれるのかということであった。
「そりゃだって、大樹くんはわたしの命の恩人じゃない。尽くすにきまってるわよ」
「命の、恩人……? ……俺が? ……俺、何かしたっけ?」
 身に覚えがなく、唐突に言われた大樹はひどく狼狽した。
「やっぱり覚えていないよねえ」
 さびしげに言いながらも、小枝は嬉しそうに微笑んでいる。
「バス停」
 と、大樹の反応をうかがいながら、小枝はささやいた。
「過呼吸」
 と、小枝は再びささやき、それを聞いた大樹は思わず声を上げた。

 高二の時の話なんだけど、その頃の私って体が弱くってね、そのせいか、私、バス停でバス待ってるときに過呼吸になっちゃったんだ。
 でも周りにいた人たちは誰も助けてくれないし、私は声も出せないしで、本当に死ぬところだったんだけど、そのときたまたまバス停にいた大樹くんが、見て見ぬふりする大人たちをかき分けて私を助けてくれたの。救急車をすぐに呼んでくれて、今もそのときのことをはっきりと思い出せるわ。あれはかっこよかったなあ。
 それで、その時のお礼がしたくて何度か同じバス停に行ったんだけど、結局それっきり。
 でも、運命っていうのはあるものなのね。この大学に入ってしばらくして、学食で昼ごはんを食べてる大樹くんを見つけたのよ。その時はもう、本当に驚いたわ。まさか、命の恩人が同じ大学にいるとは思っていなかったんだもの。
 まあ、なんていうか、ちょっと勇気出すまでに時間はかかっちゃったけど。

 霧島小枝は、楽しそうに、懐かしそうに、そして愛おしそうに語った。
「どうりで小枝があんな男を好きになるわけだ」
 と、梨花はどこか、あきれたような声で言った。
「でも、これで分かったでしょ? 私はあなたとはお付き合いしません。大樹くんとも別れません。別れる気もありません。そういうわけで、私に付きまとわないでください」
 にこりと微笑みながら、小枝は石田にはっきりとそう言った。
 駅で小枝のことを待ち伏せしてまで、石田は市内に着いた後もしつこく彼女に言い寄っていた。だが、大樹のような男のどこがいいのかと聞いたとき、大樹との馴れ初めを語られてしまい、石田は思わず、うう、とうなり声を上げ、悔しそうな顔をするしかなった。
「だ、だけど、ほら、彼は君のことをほったらかしにしているじゃないか!」
 言われて石田は、しかし引き下がる様子もなく、そしてどこか必死のようにも見える。
 石田の中では、断られたら負けだという考えが、少なからずあったからである。
「それは、周りから見たらそう思えるかもしれないわね」
「オレなら必ず彼よりも君を幸せにできる」
「何人も女がいるくせに、よくもまあ、いけしゃあしゃあと言えたもんだな」
 真剣そのものの石田に、梨花が石田を睨みつけながら横槍を入れた。
「いや、オレは本気だ。オレは君のためなら彼女たちとも別れるさ」
「分かってないなー。私は大樹くんがいなかったら存在していないの。ううん、それ以前に、いくら顔がいいからって、そもそも私はあなたに興味がないのよ」
「そんなこと言わないでさ」
 と、石田は小枝に近づいてきた。
「あーもう、めんどくさい男ね」

「投げ飛ばした?」
 小枝の言ったことがあまりに衝撃的で、大樹は普段出さないような、高い声を出した。
「うん。あんまりしつこいんで、こう、ばーっと、思いっきり。体力をつけるために始めた合気道が、まさかこんな形で役に立つとは思わなかったわ」
 そういえば段位を持っていたな、と大樹は思い出した。
 とはいえ、普段、合気道の技を見せることがない、やはり驚愕してしまう話である。
「失礼しちゃうよね。私が大樹くんと別れるわけないのに」
「じ、じゃあ……。石田のやつが言ってたんだが、小枝が石田と寝たって話は……」
 と、大樹はここで、勢いに任せ、思い切って石田が言っていたことを話した。
「あははっ。私がそんなことするわけないじゃん。それもあんな気色悪い人と」
 小枝は笑い飛ばした。その笑顔が、大樹にはあまりにもまぶしく、そして彼女のことを疑った自分があまりにも情けないように思え、泣きたくなった。
「そうだな。……はは、そうだよな」
 そうした大樹の微妙な表情の変化を小枝は見逃さなかった。いや、小枝だからこそ見逃さなかったと言ったほうがいいだろう。小枝は彼の気持ちを察し、心配になった。
「あ、ごめん。大樹くんは嫌だったよね。変な噂がながれたりして。心配したよね」
「いや、それもだけど、なんか情けなくて……。本当のこと言うと、最近、小枝がどこかよそよそしい気がして、こんなときに言うのもなんだけど、愛想尽かされたかと思ってな、別にそれでもいいかなんて思ってたんだ。それに、石田の話もすっかり信じてしまって、……本当なら疑う前にあいつを小枝に近づけないようにしないといけないのにな」
「そんな、いいのよ。つきまとわれているのを言わなかった私も悪いもの。それに、そんな噂が立ってるのに、私ったら、噂のこともあの人のことも放っておけばいいなんて考えて、私も軽率だったわ。だから、そんなに思いつめないで。ね」
 小枝は慌てた様子でそういった。それほど、大樹は苦しそうな表情をしていたのである。
 小枝が大樹の傍に行こうとひざ立ちをしようとしたとき、大樹は、頭を下げた。
「すまない、小枝。小枝は真剣に俺のことを想っていてくれてるのに、俺は……」
 大樹がここまで思いつめているとは思っていなかったため、小枝はなんと声をかけたらいいのか分からず、体も、頭も、硬直してしまった。
 それから、大樹はがばと体を起こし、真剣そのものといった表情で小枝を見た。
「……俺は、小枝が思っているような人間じゃない。俺は確かに小枝の命の恩人かもしれないけど、俺は今まで小枝を大切にしてきたわけじゃないし、やさしい人間でもない」
「大樹くん……」
「小枝が石田と一緒にいるところを見て、本当にそれが嫌で、だけど小枝がそれを望んでいるんだったらって、一度は忘れようとしたんだ。だけど、忘れようとしても忘れられない。そうすればそうするほど小枝のことを考えてしまってた」
「うん……」
「俺は、こんな性格で、こんな見た目だから、あんまり人付き合いもうまくなくて、今までどう接していたらいいのか分からなかった。だけど、俺、これからはちゃんと小枝と付き合っていきたいと思う。いや、付き合っていく。俺は小枝の気持ちに応えたい」
 ここ最近の、鬱屈としていた大樹とは思えないほど、彼のその瞳には強い力と情熱がこもっていた。今までやりたいと思えることが一つもなかった大樹に、今、目の前にいる女性を幸せにしてやりたいと言う、強い想いと願いが生まれていたのだ。
「……うん。……私も、これからもあなたのことを愛し続けます」
 はにかみながら、小枝は頷いた。
 それから、小枝はひざ立ちをして、すすす、と大樹の隣に移動し、彼の手に触れた。
 そして、小枝は、にっ、と気恥ずかしそうに、小さく微笑んだ。
 今、この瞬間、世界は二人っきりになっていた。
 聞こえるのは互いの息遣いのみであり、眼に入っているのは互いの姿である。
 いや、それは単に、このアパートの一室だけでのことなのだが、彼らにとっては目の前の光景が全てで、目の前にいる人が全てであったからだ。
 そして、二人は互いに何も言うこともなく、自然に目を閉じた。
 その瞬間、突然インターホンが鳴り、二人は同時に飛び上がりそうになった。
「あ、そうだ、二人に買い物を任せてたんだった」
 と、小枝は思い出したように言った。
「買い物? 買い物って、何のだよ」
「梨花ちゃんと中林くんに、今晩の晩ご飯とケーキを買ってくるように言ってたの」
 一気に現実に引き戻されたことに不満を持ちつつも、来客二人の顔を思い浮かべると、大樹の顔に、自然と笑みが浮かんでいた。
「忘れるなよ。……今日の晩飯は?」
「みんなで突けるお鍋よ」
 言われて、四人で囲む、暖かい食卓を想像すると、それもいいなと大樹は思えた。
「俺も何か手伝おうか?」
「ううん。主賓なんだから、作ったお茶でも飲んで待ってて。あ、和菓子もあるよ」
 和菓子か、と頭の中で考えていると、ふと、茶筒とお茶葉のことを思い出した。
「もしかして、その和菓子も手作り?」
 そう、大樹がきくと、
「ふふ、もちろん!」
 小枝はとびきりの笑顔で答えた。

 霧島小枝に投げ飛ばされた二日後、石田鉄平はそれでも懲りずに、彼女を自分ものにしようと企んでいた。とはいえ、あそこまで拒絶されたのは中谷梨花に手を出そうとしたとき以来であり、石田はいらいらとしながら、次の手を考えていた。
 二宮大樹が霧島小枝に対して、いや、むしろ恋愛そのものに対して実に無頓着な人間である言うことに、石田は気づいていた。だからこそ、あらぬ噂を立て、最悪、既成事実の一つでも作れば、二宮大樹のほうから離れるであろうと踏んでいたのだ。
 そうして、次は霧島小枝を襲ってしまおうなどと考えながら、石田は大学内のある場所に向かっていた。教室や講堂のある場所からずいぶんと離れている、体育会系のサークル棟である。というのも、石田はその日、後輩の女学生から手紙を受け取っていたからだ。
 おそらく、石田の噂をまだ知らないのだろう。見た感じ、清楚で純情っぽい、かわいらしい女学生であったし、手紙の内容も話があるという呼び出しであることから、きっと一目ぼれでもして、一人で盛り上がっている女に違いない。石田はそう確信しつつ、霧島小枝を落とす前に前菜をいただくのも悪くないと考えていた。
 サークル棟の隅、清掃道具が乱暴に放り投げられている埃っぽい場所にやってくると、しかしそこには人の姿が見当たらなかった。
 ここであっているのかと不安になり、石田は手紙を取り出して場所の確認をした。
「よお、石田鉄平」
 と、奥の物陰から、一人の男が現れた。確か先日、二宮大樹と一緒にいた情報屋の中林健二と言ったか、その男がなぜかそこにいた。
 ということは、なるほど、あの女子はこの男の差し金か、と石田は感づいた。
「君は……、中林くんだったね。こんな手の込んだことをして呼び出して、何の用かな?」
「お前さ、大樹と霧島さんのくだらない噂たてたよな。そのことで話があるんだが」
「ああ、あれか。……それで?」
「俺はな、噂話や秘密なんてものが大好きで、だから情報収集をしているんだ。もちろん、噂話なんてものにはデマも多くあるし、事実確認をしなきゃならない。まあ、そうすることにも生きがいを感じてたりするんだが、まあ、とにかく……、俺にはどうしても許せないことが一つある。……それが、お前が今回流したような品のないデマだ」
「ふうん。それで、どうするのかな? オレを殴れば気がすむのかな?」
「そんなことはしないさ。ただ、噂がどんだけ怖いものかを知ってもらう。他でもない、噂を集めて提供するこの俺が考えうる、最も恐ろしい噂だ」
 一体この男は何がいいたいのか、と石田は怪訝そうに中林を見た。
「お、先輩! こっちです、こっち!」
 と、中林は声を上げ、石田の後ろ、石田が来た道に向けて手を振った。
 石田はぎょっとした。複数の筋肉質な男たちが、ぞろぞろと廊下の先から現れたのだ。
「おう、中林。お前が言ってたのはこいつか?」
「はっ。オレをリンチにしようってのか? それでもオレは霧島小枝をあきらめないよ」
「勘違いするなよ、石田。俺は暴力的なことは好きじゃない。言ったろ? 噂だよ、噂」
「はあ? 何を言ってるんだ、お前?」
「大学中の男色趣味を持っている男たちに、お前にもそういう趣味があるって噂を流した」
「……。……え?」
 さあ、と石田の顔から、一気に血の気が引いた。
「もちろん、彼らだけじゃなく、大学中にな。それから、ここに来た彼らにはお前の電話番号から住所まで渡しておいたから。ああ、安心しろ。彼らはお前みたいなきれいな顔の男が特に好きな方たちらしいから、ちゃあんと愛されると思うぜ?」
 言われた石田は、それまでの強気な表情も失せ、呆然と立ち尽くしている。
「それじゃあ、俺はこれで。……ああ、先輩、こいつちょっとエムっ気があるらしいんで、嫌だって言っても思いっきりしてほしいそうっすよ」
「おほっ! 分かった、楽しませてもらおう!」
 青ざめた表情で、石田は明らかに力では勝てない男たちの隙間から、中林の後姿に救いを求めたのだが、中林は一度も振り返ることなくその場を立ち去った。


 三滝春彦のその後

 十月十九日のことである。まだ緑が残っているとはいえ、そろそろどの山も、本格的に衣替えを始めている頃だ。その中を、スーツ姿の者たちは相も変わらず汗を流していた。
「お姉さん、アイスティーひとつ! 03、お前は何を飲む?」
「……じゃあ同じので」
「お姉さん、アイスティーふたつお願い!」
 街中にある喫茶店に入った春彦と03は、通りを行くスーツ姿の者たちを眺めていた。
 店内は空調が効いていて快適で、最近流行っているバイオリニストの落ち着いた曲がかかっており、つかの間の休息にはうってつけであった。
 二人はなるべく窓際から離れた位置に座ると、まずは注文した飲み物が来るのを待った。
 と、アイスティーよりも先に、お冷が出された。
「そういえば、先月の話なんですけど……」
 と、03は話を切り出しながら、鎮静薬を取り出して水と一緒に飲んだ。
「あの駅で、なんであの人を助けたんですか?」
 それは、もうすでに足を洗ったとはいえ、殺し屋の三滝春彦が人助けをしたのだ。『元殺し屋』だとしても、春彦のことを知っているからこそ、03は驚いていた。
「ああ、あのことな。……なんていうか、俺なりに考えがあってよ」
「ほう……、考え、ですか……?」
 うむ、と春彦はいつになく真剣な表情をした。
「ほら。俺たちって今まで色んな人間の命を奪ってきただろ?」
「……罪滅ぼしをしようと?」
「そういうわけじゃない。ほら、俺たちが暗殺やなんかをしてきたのは、『組織』の命令に従わなきゃいけなかったからで、もっと言えば、三島にとって、特に03が人殺しの道具でいるほうがうれしいわけだ。じゃあこれからは、反対のことをしてやろうってこと」
 注文していたアイスティーが到着した。
 03は、アイスティーを飲みながら春彦の言ったことを頭の中で整理した。
「……それって、つまり三島博士に対する嫌がらせですか」
「まあ、そういうことにならなくもない。いくら死んだとはいえ、このままあいつの思惑通り、03が殺人を続けるのは癪に障る。お前は俺の女だ。そういう理屈だ」
 恥ずかしげもなくそういう春彦を、03は恥ずかしく思った。とはいえ、それもまた、悪くない、と同時に感じるのは、春彦にそう想われることに嬉しさがあるからだ。
「なんていうか……。すごく馬鹿っぽい理由ですね」
 もっとも、どんな感情を持とうと、それが表情に出ることはなかった。
 03は、一ヶ月たった今でも変わらず表情を作ることができないでいたのだ。
「そんな事いって、本当はうれしいくせによお」
 しかし、春彦にとって、それはさほど問題ではない。彼女を長いこと見ていた春彦には、顔に出なくとも、彼女の感情の変化が分かるのであった。
「別に……うれしくなんかないです……」
「ほんとかな? 夏希ちゃんは天邪鬼だからな」
「ちょっと……。その名前で呼ばないでください……」
「なんでだよ?」
「だって……。あなたが、その、好きなのは……、佐川女史の娘とか、佐川夏希の形をした人間じゃなくて、03と呼ばれていた私なのでしょう?」
 言って、03はそう言ったことを後悔した。03の言葉を聞いた春彦が、にやあ、っと嬉しそうに、鼻の下を伸ばしたなんともいやらしい笑顔を見せたのである。
「なんて顔してるんですか。ふさがった傷をこじ開けますよ」
「おお、こわいこわい……。それにしても、こないだと言っていたことと逆じゃないか? お前が言うには、『組織』の03は死んだんじゃなかったのかなあ?」
「……『組織の』、です。……というか、いい加減その腹立つ顔やめていただけません?」

 会計を済ませた後、二人は喫茶店を出た。
「ちょっと。いい加減忘れてくださいよ」
「いいや、忘れないね。毎夜、枕元でささやいてやるよ」
「やってみてくださいよ。そのあご、叩き割ってやりますから」
 そうして喫茶店での会話を続けていた二人であったが、その動きが、ぴたりと止まった。
 まさに、あっという間の出来事であった。
 突然、数台の車が急停車し、中から黒いスーツをまとった男たちが飛び出し、二人を取り囲んだ。しかも、男たちは全員が拳銃を持っており、その重厚を二人に向けたのである。
「03……、俺が隙を作るから……、お前だけでも逃げろ」
 状況を察した春彦は、両手を頭の後ろで組みながらも、小声で03にそういった。
「何を言っているんですか。どこにだって連れて行ってくれるんでしょう? なら、地獄の果てまで連れて行ってください」
 03は、じっと春彦の目を見ながら、そう返した。

 春彦は両手を縛られ、頭に袋をかぶせられ、そのまま車で連れ去られた。
 頼れるものは聴覚しかないが、おそらく03も同じように車に入れられたのだろう。
 ずいぶんと長いこと移動させられ、車から降ろされると、今度は袋をかぶせられたままの状態で、どこかの建物の中に連れ込まれた。
 と、視界が開けた。袋をはずされたのである。
 目の前には大きな絵画、高級そうなデスク、そして、異様に大きな椅子がある。
 春彦は隣を見た。両手を後ろで縛られているが、03も、しっかりとそこにいた。
 とはいえ、ここは一体どこで、なぜ殺されないのか、春彦は状況が掴めないでいた。
「お前たちか……」
 と、奥にある、大きく、偉そうな雰囲気のある椅子から、声が聞こえた。
 それから、声の主はデスクにおいてある葉巻を取りながら、椅子から降りた。
 大柄の、太った老人であるが、葉巻を吸う姿はいかにも悪党の親玉のようであった。
「……社長」
 と、呟いた春彦の顔は、驚愕と絶望の色に染められていた。
「九月十五日……、駅のホームにて……」
 低く、しゃがれた声で、老人はそういいながら、ゆっくりと二人に近づいた。
 その風格は並みのものではなく、春彦と03は自然と脂汗を顔ににじませていた。
「……お前たち二人は、ある女の命を助けたそうだな」
 老人は、言いながら春彦と03の正面に立った。
 近くで見ると、その鋭く、気迫に満ちた眼光に気圧されそうになる。
「あ、ああ。助けた……」
 春彦は答えた。答えるので精一杯といった様子であった。
 あの春彦にそうさせるほどに、この老人の眼力は凄まじいものであった。
「……」
「……」
 ずいぶんと長い時間、そうして二人は硬直したような気がした。
 ずいぶんと短い時間、そうして二人は沈黙したような気がした。
 と、突然、老人は満面の笑みを見せた。
 それから、力強く春彦の両肩を叩くと、今度は03の両肩を勢いよく叩いた。
「ようやった、ようやった!」
 大砲のような大きな声で、老人はそうと、
「おい、誰が縛れといった。はずしてやれ!」
 なぜか、老人は部下たちにそう命令した。
 わけも分からず呆然と立ち尽くしていると、黒いスーツの男たちが慌てた様子で、春彦と03の拘束を解き始めた。
「……え、えっと。どういうことなのですか?」
 困惑しつつも、03が先に老人に訪ねた。
 言われた老人は、その巨体のわりに俊敏に動き、デスクから一枚の写真を取ってきた。
「奏海ちゃんだよ! 五木奏海ちゃん! お前たち二人が助けたのは、今、世間を騒がせている天才女性バイオリニストの五木奏海ちゃんなのだよ!」
 と、老人は恋する乙女のような目で、一枚のブロマイドを見せた。
 そこには、あの日、あの駅で助けた女性の姿が映っていた。
「……えっと。……有名な人なんですか?」
 今度は春彦が聞いた。
「有名だ! わしも大ファンでな! 彼女が欧米で活躍し始めたときからの大ファンでな! アルバムも全部買っている!」
「……はあ」
 あまりにも予想外の出来事に、春彦は緊張の糸が切れたのか、こんな老人が若い女性に熱中している姿に驚くと同時にあきれ始めていた。
「いやあ、お前たちがいなければ彼女は死んでいたかもしれないと考えると……」
「……はあ」
「そういうわけだ。どこへなりとも、好きなところに行くといい」
「……は、はあ。しかし、……俺、いや、自分は三島博士を殺したんですが」
 さすがに、老人のその言葉には狼狽してしまった。
 03も、顔には出ないが、信じられない、といった様子でいた。
「ああ、よいよい。あの男はどの道、一人で暴走しすぎておったし、わしの金にも手をつけておったからの、いずれ制裁を加えるつもりでおったからちょうど良いわ」
「……はあ」
「それより、お前たち。『組織』を抜けて、これからどうするつもりだ?」
 言われて二人は、言葉に困った。改めて言われてみると、三島博士への嫌がらせ以外、具体的に何をするかを決めていなかったのである
「どうします?」
 03が春彦を見上げた。
「そう、だな……。どっかで喫茶店でも開いて、のんびりとするか?」
 春彦がそういった瞬間、老人は豪快に笑い声を上げた。
「よい。それでよい。ここでお前が殺し屋を続けると言っておったら、二人とも、今この場で殺すつもりでおったところだ」
 笑いながら、老人は恐ろしいことを言った。

 十月二十日のことである。
 いつも喫茶店に入った春彦と03の二人は、店内で見知った顔があることに気がついた。
「やあ、お姉さん。お久しぶり」
 と、春彦はにこやかに声をかけた。
 しかし、突然声を掛けられて驚いたのか、女性は少々戸惑いながら、二人を見た。
「ほら、駅のホームで奏海を助けてくれた二人だよ」
 実際にその場に居合わせたわけではないが、女性の正面に座っていた男性が説明した。
「あっ! その節は、どうもありがとうございました!」
 と、女性は深々と頭を下げた。
「いえ、お元気そうで何よりです。それに、お礼を言うのはこちらも同じです」
「まったくだな」
 03が言った後、春彦も続いた。そして二人は、互いに顔を見合った。
 しかし女性は二人の言っていることの意味が理解できず、不思議そうに首をかしげた。
「……どういう意味でしょうか?」
「ああ、いや、こっちの話さ。……それより、お姉さん、あんた巷じゃかなり有名なバイオリニストらしいじゃないか。どうりであの時もバイオリンを持っていたわけだ」
「いえ、有名だなんてそんな……。そうだ! お二人に渡したいものがあります」
「渡したいもの?」
「ええ。陸夫くん、持ってる?」
 言われて男性は鞄から二枚の紙切れを取り出し、春彦と03に手渡した。
「私の命を救っていただいたお礼といってはつまらないものですが、今週末にある私のコンサートのチケットです。もしよろしかったら、いらしてください」
 春彦と03は、再び互いに顔を見合わせた。
 それから、春彦はふっと小さく笑ったのだが、03も彼と同じ気持ちでいた。


四葉重治のその後

 その十二 居酒屋
「そんなに嫌ならこの家から出て行ったらいいんじゃないの?」
 さすがに、本気でそういったわけではなかったのだろう。
 現に、彼女たちは、その言葉に対する重治の行動に驚いていた。
 ここ最近の重治は、まるで人が変わったかのように、物事にはっきりと答えを出すようになっていた。もちろん、仕事で無茶な我侭を通すようなことはしないが、それでも以前の彼と比べると驚くほどの仕事ぶりを発揮し、『見た目のわりに後光が差すようだ』などと周りの人間に言わせるほどに変わっていたのである。
 しかし、そうして変わった重治を快く思わない人間もいた。
 会社の同僚などもそうであるが、彼らの場合、所詮は妬みであり、大して問題ではない。
 問題は、家族のほうであった。今まで邪魔者のように邪険に扱っていた重治が、突然、亭主面、父親面をし始めたことに、戸惑うと同時にひどく苛立ちを覚えていたのだ。
 そんな状態で、十月十二日の朝、口論は起きた。
 きっかけは、重治が妻と娘の散財に対して注意したことである。
 これに逆上した妻は、ついかっとなって、
「そんなに嫌ならこの家から出て行ったらいいんじゃないの?」
 などと言ったのだが、これはどう考えても筋違いである。
 とはいえ、そう言われた瞬間、重治は目から鱗が落ちたのだ。
「そうか……。その手があったか……」
 さすがにそう返されるとは思いもしなかった妻と娘は、ぽかんと阿呆のような顔をした。
 それから重治は、スーツケースにワイシャツ二枚、下着二枚を入れて、準備を終えた。
 たったそれだけしか重治の持ち物はなかったのか、と驚いたのは、妻と娘である。
 そして、事は淡々と進んでしまった。もっとも、進めたのは全て重治である。
「手続きとかは後で済ませよう。用紙も俺がもらってくる」
 そういって、重治は玄関から外に出た。
 十月も半ばになり、夏よりかはだいぶ涼しくなった。
 その涼しさと、朝日を見ると、清々しい気持ちと、気分の良い開放感があった。
 と、郵便受けに、一通の手紙が、四葉重治宛に入っていた。
 
 十月十五日のことだ。その日の業務を終えると、重治はいつもの居酒屋へと向かった。
 事前に連絡をしていたわけではないが、なんとなく、いつも二人で酒を飲む居酒屋に行けば、香穂がいるような気がしていたからである。
 年季が入って動かしにくい引き戸を開けると、店内は中年男性たちで賑わっていた。
 誰もが仕事終わりにここに来ているのだろう。一様に、黒いスーツを脱ぎ、白いワイシャツ姿になり、子供のように、あるいは学生のように、楽しそうにはしゃいでいた。
 そんな中、カウンター席には一人でうな垂れる、女性の姿があった。
 この中では、唯一黒いスーツを着たままの女性である。
 重治は、その女性を見つけると、彼女の隣に座った。
「生一つ」
 重治のその声を聴き、香穂は彼のほうを振り向いた。
「今日は飲もうって話してなかったような気がするんだけど……」
 案の定、彼女は目に見えて元気がなかった。
「まあ、……こういう日もあるさ」
 ふうん、と香穂は頬杖をついて、重治から目線をそらした。
 それから、二人の間にしばらく沈黙が続いた。
「あのさ……」
 口を開いたのは香穂であった。
「あたし、離婚したよ」
「へえ、奇遇だな。俺も昨日、離婚届を出したとこなんだよ」
 香穂は、重治の言っていることがにわかに信じられず、彼の顔をじっと見つめた。
「離婚……、したのか? ……子供はどっちが?」
「向こうだな」
「無責任なやつだな。……たしか、奥さんは専業主婦だろ? それって大丈夫なのか?」
 香穂は、自分のことを重ねた。放したくなくても息子を手放さざるをえなくなったことを思うと、重治の行動に対して怒りさえわいてきたのだ。
「それが、あいつはあいつで楽しくやってる人がいたようで、何とかなってるんだな」
「……ああ、そう」
「それで、約束の話なんだけど」
 言われて、重治が何のことを言っているのかがわからず、香穂はきょとんとした。
 そんな香穂の顔を見て、重治は思わず笑い出してしまった。
「なんだよ。自分で言ったこと忘れたのか」
「えっ? なんだっけ?」
「お互いだめになったら、慰安旅行に行こうって話をしただろ」
 言われて、香穂は初めて思い出した。
「ああ、……いや、でも離婚したばっかりで男女で行くのってどうなんだよ」
「言いだしっぺがよく言うよ。……だけど、じゃあしょうがないな。せっかく五木奏海のコンサートのチケットを手に入れたんだけど、香穂がそういうならしょうがないな」
「ちょっと待て。五木奏海?」
 重治は財布に入れていたチケットを取り出した。
「確かこの間、五木奏海のチケットが取れなかったって嘆いてたよな」
「それはそうだけど、なんでそれをお前が持ってんだよ」
「まあ、色々あってね。――それより、行くのか? 行かないのか?」
「……なんか、離婚してちょっと明るくなったというか、生意気になったな」
「そうだな。せっかく離婚したんだから引きずらず、人生再スタートするつもりだからな」
「……はあ。そういうもんか?」
「要は気の持ちよう。自分でだめだと思えば、全部だめになるってこと」
 その言葉は、いつか香穂が重治に言ったものである。
 あの時、自分がそうしたように、重治が自分を励ましてくれている。心の支えになってくれている。重治の口から聞いて、香穂はぐっと胸にこみ上げてくるものがあった。
 香穂は、うつむき、わなわなと震えた。
「……香穂?」
 重治が心配そうに彼女の顔を覗き込んだとき、香穂は重治が頼んだビールを奪った。
「あ、おい。それ俺の……」
 と、言う間に、香穂はジョッキ一杯のビールを一気に飲み干した。
 それから、香穂はがばと上着を脱ぎ、白いワイシャツをさらけ出した。
「よし行こう! 熱海にでも、どこへでも、行きたいところに遊びに行くぞ!」
「それ、俺が言うべきせりふだと思うんだけどなあ」
 言いつつ、重治も、香穂も、この瞬間を楽しんでいるといった満面の笑みを浮かべた。
 それは、周りの男性客たちと同じように、活力に満ちた、いい笑顔であった。


 五木奏海のその後 一

 目が覚めたとき、視界にあるのは真っ白な天井と、細長い蛍光灯の明かりだけだった。
 私は仰向けに寝かされていて、なぜかすごく体がふわふわしていた。
「念のため、脳の検査もしましたが、問題はありませんでした。ただ、体力が少し落ちていることと、疲労がたまっているようなので、しっかりと療養を受ける必要があります」
 どこか、遠くで誰かの話し声が聞こえた。
 それにしても、なんだか不思議な感覚がする。
 左腕から体中に冷たい液体が駆け巡るような、不思議な感覚がする。
「奏海、起きたか」
 ああ、陸夫くんが、心配そうに私を見ている。
 だけど、なんだか体を動かしたくない。
 このまま寝ていたいような気分がする。
「すまない、奏海。俺がもう少しお前のことを見ていれば」
「……何のこと?」
「覚えてないのか? 奏海、駅のホームで倒れたんだよ」
「駅で……?」
「そう。それで、たまたまそこにいた五人の人たちが、奏海を助けてくれたんだ」
 そうだ。思い出した。
「……私、練習に行かなきゃ」
 私は無理やり体を起こそうとしたんだけど、力がうまく入らない。
「無理するなって」
 陸夫くんが、優しく私の体を押さえてくれた。
 ちょっとだけ気恥ずかしかったけど、おかげで頭も動き始めた。
「でも、公演は今週だよ? 昨日も休みをもらっちゃったし、これ以上休んでられないよ」
「いや、公演は中止にしよう」
 中止……? 中止なんて出来ない。だって、そうしたら私のお母さんに今の私を見てもらえないし、陸夫くんに私の気持ちを伝えられない。
「そんな……。中止なんて、楽団員のみんなだけじゃなくって、会場のスタッフさんや、広報をしてくれた人たちや、チケットを買ってくれた、いろんな人に迷惑がかかっちゃう」
「ばかだな、逆だよ。無理して、調子悪いのに出たりしたら、そのほうが迷惑かかるだろ」
 そ、それは、そうだけど……。
「それに、主役は奏海だ。みんな、奏海がいい演奏をしてくれることを望んでいるはずだよ。だから、しっかりと休みを取って、最高の演奏が出来るようにしよう」
 そう、ね……。そうだね。
「カナさーん!」
 部屋の中に、何人もの男女がなだれ込んできた。
 みんな、私と一緒に演奏をしてくれる、楽団員の人たちだ。
「カナさん! 大丈夫ですか!」
「倒れたって本当ですか? 大丈夫ですか?」
「ちょっと! 貴方たち! ここは病院ですよ! 静かにしなさい!」
 看護婦さんに怒ても、みんなは、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
 それほど、私のことを心配してくれていたんだな。
 それほど、私はみんなに心配をかけちゃったんだ。
「そうだよ、奏海。みんな、奏海のことが好きなんだ。心配しないわけないさ」
 陸夫くんが、そういいながら微笑んでくれた。
 その顔を見たとき、私は胸が締め付けられそうになった。
 私は……、何も考えていなかった。
 私が日本でコンサートを開けるのは、ううん、もっと言えば、私がバイオリンをしていられるのは、陸夫くんに恋したからで、お母さんの厳しい教育があったからで、長谷川おじさんやオコーネルさんたちのお世話になったからで、それで、小谷先生や、先生が紹介してくた楽団に出会えたからだ。それだけじゃない。会場のスタッフさんたちや、一緒に演奏してくれるみんな、事務所の人たちに、今日、私の演奏を見に来てくれた人たち、そして私の命を救ってくれたっていう、その五人の人たちがいたからこそだ。
 本当に沢山の人がいたからこそ、私という一人の人間はいる。私が恵まれていただけっていうこともあるだろうけど、だからこそ、私はその事を忘れてはいけないんだ。
「……そうだね。……ごめんね、みんな。私、周りがちゃんと見えてなかった」
「そんな、カナさんが謝ることなんてないですよ」
 一番年下で、一番私のことを慕ってくれている女の子が、慌てて言ってくれた。
「……だけど、みんなのためにも、最高の状態で、最高の演奏がしたい」
 そして、私は私自身のことも大事だけど、一緒にいてくれるみんなのためにも、私のことを支えてきてくれた人たちのためにも、私はみんなが喜んでくれる音楽を奏でたい。
「とりあえず、公演は来月に延期するよう掛け合ってみるよ」
「ありがとう、陸夫くん」
「私たちも、しっかり準備しておきます」
「ありがとう、みんな」

十時十二分 駅のホームにて

 十時十二分 駅のホームにて

 九月十四日
「……カナさん、……大丈夫ですか?」
 と、楽団員の一人が、心配そうに五木奏海の顔を覗き込んだ。
 いや、彼だけでなく、楽団員の誰もが、奏海のことを心配していた。
「え、ええ。……大丈夫よ」
「でも、顔色悪いですよ」
 世界的に有名なバイオリニストである五木奏海は、今週末、日本で初めてのコンサートが控えている。しかし、それは単に日本で初めてデビューするということだけではなく、母親との間にあるわだかまりや、幼馴染である真鍋陸夫に対する想いに決着をつけるという意味もあり、彼女はこの公演に今まで以上の力を注いでいた。
 とはいえ、奏海は少々、無理をしていた。先週末もそうであったが、自宅に帰れば練習をするか、作曲をすることに明け暮れ、ほとんど体を休めていなかったのだ。
 焦りや緊張がそうさせていると言うのもあるだろう。だが、それは彼女の音楽に直に影響を及ぼしてしまう。五木奏海の音楽は彼女の心の健康状態に左右される、と言われるほど、同じ曲でも奏海の気分で音色が、旋律が、変わってしまうのだ。
 休憩中に楽団員が彼女の様子をうかがったのは、彼女の顔色もそうであるが、やはり日を追うごとに、疲労が明らかに演奏に出ているからであった。
「無理しないで今日は休みましょうよ。倒れたりしたらどうするんですか」
「そうですよ。カナさん、最高の演奏をしたいって、コンサート楽しみにしてたじゃないですか。それなら最高のコンディションでいかないとだめですよ」
 言われて、確かにその通りだ、と奏海は反省した。
「……そうね。それじゃあ、後のことはお願いできるかしら」
「任せてください。カナさんがいるつもりで、みんなしっかり練習しておきますよ」
 そうして、奏海は楽団員たちに見送られながら帰宅した。
 だが、奏海は休まなかった。
 疲れていることなど、本人が一番良く分かっている。それでも彼女は休まなかったのだ。
 この頃の彼女は、音楽に取り付かれているようであった。料理をする時間を省くためにインスタントに頼り、睡眠時間を削り、そうして彼女は疲労をため続けていた。
 当然、その疲労は翌日になっても抜けることがなく、健康管理も凄惨なものであった。
 それでも、彼女は練習に行かなければならない、と重い体を無理やり起こした。
 そうして、翌日、九月十五日。
 その日は相変わらず気温が高かった。
 奏海は白いワンピースを着て、陸夫の音楽事務所に向かったのだが、照りつける夏の日差しと、じわりと汗を噴き出させる湿気によって、彼女の体力はさらに奪われていた。
 今の彼女に、走る車の音は聞こえているだろうか。
 今の彼女に、けたたましいセミの声は聞こえているだろうか。
 息を切らし、ほてっている体は、すでに悲鳴を上げている。
 距離は変わらないが、いつもより長く感じる道を歩き、ようやく駅のホームに到着した。
 時刻は十時ちょうどである。
 次の電車は、十時十五分到着。
 時計の針を確認した後、座る場所はないか、と辺りを見回すと、どこも中年の男性や女性が座っている。暑そうにハンカチや扇子で顔をあおいでいた。
 つう、と汗が、奏海の頬を伝い、あごの先にたまった。
 いくら屋根の下にいるとは言え、気温が変わるわけではない。
 ぽたっ、と汗が、地に落ちた。
 それからの数分間を、彼女は覚えていなかった。
 危うげに、ふらふらとしていたこと。
 何も考えられず、ぼうとしていたこと。
 焦点が定まらず、めまいがしていたこと。
 そして、十時十二分のその時、線路の上に落ちてしまったことも。

 カーテンから、すう、とこぼれる一筋の光。
 薄暗い部屋の壁に掛けられた、女子生徒用の制服。
 静かな寝息の聞こえる、やわらかそうなベッド。
 部屋の中を、朝の静寂が包み込んでいた。
 こち、こち、こち、こち……。
 これだけ静かだと、時計の音が、妙に大きく聞こえてくる。
 こち、こち、こち、こち……。
 その時計の秒針は、八の手前で止まっていた。
 たった一秒分の時を刻む力すら持ち合わせていないのか、上に昇ろうとしては元の位置に戻ることを繰り返しているのだ。もっとも、組みかけの立体パズルというデザインをしているこの時計には、むしろ正常に動いていないほうが、本来の姿のように見えてくる。
 その時計の前に、ゆっくりと、一本の手が伸びてきた。
 薄く小麦色に焼けた、綺麗な指先をした手だ。
 手は、位置を確かめるように見当はずれな場所を触れた後、ようやく時計を掴みとった。
 ベッドの上で眠っていた彼女は、ぐっ、と背伸びをして、時計の針を眺めた。
 と、すぐさまがばと起き上がり、再び時計の針を凝視した。
 こち、こち、こち、こち……。
 音はするが、針が止まっている。
 慌ててベッドから飛び降りると、机の上に置いてある腕時計を手に取った。
「もう九時じゃない!」
 と、彼女は驚愕のあまり、叫び声を上げてしまった。
 うろたえながらも大急ぎで身支度を始め、用意が終わった頃には九時二十分。
 朝食も食べずに外に飛び出すと、小夜子は自転車に乗り、駅まで必死にペダルをこいだ。
 額から、全身から大量の汗を流し、髪はぼさぼさのまま、息も絶え絶えの状態で、ようやく改札口を通って駅のホームに到着すると、時刻は十時ちょうどであった。
「ポカリ買ってこよ……」
 汗でべたつく制服は気持ち悪く、しかし彼女は、鞄に入れていた汗拭き用のタオルの存在をすっかりと忘れ、涼と水分を取るために自動販売機でスポーツ飲料を買った。
 それから弁当を購入し、時計の針を見ると十時十分となっていた。
「遅刻だな……」
 のんきな事を言いながら、こうして一条小夜子はこのとき、この駅のホームにいた。

 四葉重治は、携帯電話を鞄にしまうと、親友のことを考えた。
 あの気丈な香穂が、実はそう振舞っていただけだったということと、彼女が苦しんでいると言うことに気がつけなかったと言うことで、頭の中は埋まっていた。
 自分に何か出来るわけではないが、今すぐにでも彼女に会わなければならない。
 会って話をしなければならない。
 重治は、そう考えていた。
 そうして、踵を返したときだった。
 すぐ近くにいた女性が、悲鳴を上げた。
 と、続いて辺りにいた男性も女性も騒ぎ出した。
 振り返ると、先ほどまで目の前にいた、あの白いワンピースを着た女性の姿がない。
「人が線路の上に落ちたぞ!」
「おいおい、自殺か? 仕事に遅れると困るんだけどなあ」
「誰か駅員呼べよー」
 駅のホーム内がざわつき始めた。
 これも、あの人が言っていた選択するということなのだろうか。
 重治の脳裏に、白いスーツを着た老人の姿がちらついた。
 いや、今はそのことよりも、彼女のことが気になる。
 親友である、軽澤香穂のことが気になっていた。
 そうして重治は、踵を返した。

「あなたに好きだと言われたとき……」
 と、ぼさぼさの髪をした、能面のように表情がない女は言った。
「そう言われるのは悪い気がしない……、と思いました」
 その言葉を聞いて、女の正面に立っている無精ひげを生やした男は、
「まったく、そういうところは素直じゃないな」
 にかっと屈託のない笑顔を見せた。
 三滝春彦と03の二人は、『組織』の追っ手から逃れるために、この駅にいた。
 しかし、乗ろうとしていた電車を逃し、手持ち無沙汰になっていたところであった。
「それより、次の電車は何時なんですか?」
「ああ、そういえばそうだな。今が――」
 と、春彦は時計を見た。
「十時十分で、五分後に来る電車の、その次の電車だから……。あと二十分ほどだな」
「二十分ですか……」
 03は表情を変えず、声を落としていった。
「ここで二十分も待つのは危険だな」
 彼女の代わりにそうするかのように、春彦は渋い顔をして腕を組んだ。
「適当に他の電車に乗るか、ここから出るかしません?」
「そうだな。こうしている間も、いつまた追っ手が来るか分からないし……」
 と、春彦はそこで話を止めた。
 03は、春彦が自分の肩越しに何かを見ていることに気がつき、その視線の先を追った。
 白いワンピースを着た、清楚な雰囲気の女性がいた。それだけでも目立つのだが、手にバイオリンケースを持っているため、余計に目につく、そういう女性である。
「……あの人が、どうかしたのですか?」
「いや、ふらついてて……今にも倒れそうだなあ、って」
「あっ」
「あっ」
 二人が同時に声をあげたとき、ワンピースの女性は、ふっと、視界から消えた。
 線路の上に落ちたのだ。

 さあっ、と二宮大樹の顔から血の気が引いた。
 無情にも、この駅に入ってきた電車は、次の目的地へと向かった。
 たとえ、どれだけそうして欲しくないと望もうと、願おうと、時刻どおりに電車は進む。
 ふと、あの時、大きな声を上げて彼女を呼べばよかったのではないかと考えたが、そうしたところで、どう結果が変わっただろうか。
 もしかしたら声が聞こえなかったかもしれない。
 あるいは聞こえても自分のことと気がつかなかったかもしれない。
 大樹は、肩を落とし、目の前で起きたことに何も出来なかったことを悔やんだ。
 いや、考えるのはよそう。
 そう、頭に念じながらも、大学に行かなければならないことも忘れ、自宅に戻ろうとするあたり、大樹はひどく動揺していた。
 しかし、まさか、本当に小枝が鉄平と……。
 嫌な汗が流れた。夏の暑さのせいではない。
 起きたことに対する動揺。
 小枝に裏切られたと言う絶望。
 鉄平に対する怒り。
 大樹は逃げ出すように駅のホームから出ようとした。
 と、そのときであった。
 目の前にいた、白いワンピースの女性が、ふらあっ、と視界から消えた。
 線路の上に落ちたのだ。
 すぐ近くにいた女性が、悲鳴を上げた。
 と、続いて辺りの男性も女性も騒ぎ出した。
「人が線路の上に落ちたぞ!」
「おいおい、自殺か? 仕事に遅れると困るんだけどなあ」
「誰か駅員呼べよー」
 駅のホーム内がざわつき始めた。
 それぞれが勝手なことを言いながら、しかし誰も動こうとしない。
 一瞬、いつかバス停で人を助けたときの光景が、頭の中でちらついた。
 そうだ。あの時も、誰も助けようとしなかった。
 結局のところ、人は他人よりも自分を大切にするものだ。
 だから、面倒ごとに巻き込まれないためにも、彼らは何もしない。
 なら、自分が動くしかない。
 と、大樹が頭の中でごちゃごちゃと考えていたときだった。
「あっ! ちょっと!」
 大樹の背後で、女性が大きな声を上げたのだ。
 と、すぐに大樹の脇を、一組の男女が走り抜けた。
 大樹が動くよりも先に、おそらく彼女が線路の上に落ちたその瞬間に、二人は動き始めていたのだろう。それほど、彼らの行動は早く、そして速かった。
 まず、男性が線路の上に飛び降りた。無精ひげを生やした、力強い風格の男であった。

「03! 手伝ってくれ!」
 線路に下りた春彦は、ホームにいる03を見上げた。
「それは構わないですけど、その人もあなたの知り合いですか?」
「ばかっ! こういうときはそういうこと考えなくていいんだよ!」
 と、03も春彦に続いて線路の上に降りた。
 線路の上は、さすがに屋根もないと言うこともあり、敷き詰められた砂利の上に立つと、熱せられた鉄板の上にいるのではないかと思えるほどに、容赦なく暑い。
 春彦は、女性の上半身を抱き起こした。
「おい! 大丈夫か!」
 生きているのか死んでいるのかは分からないが、だらりと手を垂らし、返答がない。
 その体に触れたとき、尋常ではない量の汗と、異様なまでに冷たい皮膚に驚いた。
「しょうがねえな。……03、ちょっとこの人、抱えてやってくれ」
 と、隣にやってきた03に言った。
「いいですけど、あなたは?」
「俺が土台になるから、そのまま先に上がってくれ」
「何を……。そんなことして傷が開いたらどうするんですか。私が下になります」
「あのなあ。男が女を踏み台に出来るわけないだろ」
「そんなこと言って、傷が開いた状態で追っ手と交戦できるんですか?」
「いいからさっさとしてくれ。電車が来ちまう」
 次の電車の時刻を思い出し、03は春彦に従った。
 まず、03が白いワンピースの女性を背負った。
 それから、春彦がホームに背を付け、中腰になって手を組んだ。
 03は、春彦が組んだ手の上に片足を置き、ホームの上によじ登った。
 それから、女性が持っていたバイオリンケースが線路上にあることに、晴彦は気が付き、これも駅のホームに上げた。
「あー、しんどい……」
 春彦は腹部を押さえた。さすがに体を支えるのに腹部に力を入れないわけがなく、傷が開くほどまではいかずとも、春彦は腹部の痛みに顔をゆがめた。
 とはいえ、のんびりしてはいられず、春彦もホームに上がろうとしたのだが、腹の痛みのせいか、思うように体に力が入らなかった。
 そうしてホームに上がることに手こずっていると、春彦の両腕を、がしと誰かが掴んだ。
 右腕を掴んでいたのは03であった。
 ホームの上に女性を横たえたあと、すぐに春彦のもとへと駆けつけたのだ。
 そして、左腕を掴んでいたのは、知らない中年男性であった。
 だいぶ後退して薄くなった頭に、大きなレンズの眼鏡、中肉中背の体型と、ずいぶんと冴えなく見える中年男である。
「電車は駅員に止めてもらったよ」
 と、中年男は言った。
「おっさん、恩に着るよ!」
 そして03と中年男の二人によって、春彦は引き上げられた。
「彼女は?」
「それが、息はしているんですけど、一向に目を覚まさなくて」
「汗も止まらないし、どうしたらいいんだ?」
「……たぶん、熱射病だと思いますよ」
 三人の背後で、低くはあるが、若い感じの男の声がした。

 大樹は、これほど早く、かつ速く動いて人を助けようとしている光景を、今まで見たことがなかった。大抵の大人は、見てみぬふりを通すからである。
 だが、あの男女は誰よりも真っ先に線路の上に落ちた女性の下に駆けつけ、助けた。
 そばにいた中年の男性も、すぐさま駅員を呼んで電車を止めさせていた。
「それが、息はしているんですけど、一向に目を覚まさなくて」
「汗も止まらないし、どうしたらいいんだ?」
 彼らの言葉を聞いたとき、驚きのあまりほうけていた大樹は我に返った。
「たぶん、熱射病だと思いますよ」
 と、大樹はすぐに女性の下に駆けつけた。
 女性の体に触れてみると、皮膚が冷たく、汗が止まらない様子である。
 確か、前にも一度、似たような状態になった人を助けたことがあったな、と大樹はすぐにそのときのことを思い出した。
「やっぱり熱射病かもしれないです。なにか、体を冷やすものがあればいいんですけど。団扇とか、濡れたタオルとか、あとスポーツ飲料も欲しいですね」

 はっ、と一条小夜子は、自分の手元を見た。
 手には先ほど買ったばかりのスポーツ飲料。
 遅刻してこの事故に遭遇したことにも驚いたが、あの若い男性の言葉を聞いたとき、小夜子は自分でもスポーツ飲料を買って手に持っていたことに驚いた。
「あ、あの! ポカリならあります!」
 と、小夜子は女性を助けた集団のもとに駆け寄った。
「おお! 嬢ちゃん、ちょうどいい!」
 無精ひげを生やした男性が、受け取った。
 そこで、そういえば鞄の中に汗を拭くように持ってきたタオルが入っている、ということを思い出し、小夜子はタオルを取り出した。
「あと、まだ使っていないタオルもあるんですけど」
「貸して、私が濡らしてきます」
「お願いします」
 ぼさぼさの髪をした女性は、表情を変えず、冷静にタオルを受け取ると、タオルを水で濡らすためにトイレへと走っていった。
「頭を打っていないか気になりますね」
 と、若い男性が言った。
「救急車も呼んであるから、到着したらそのことも伝えておこう」
 と、中年の男性が言った。
 それから、若い男性は何を考えているのか、よく冷えたスポーツ飲料の入ったペットボトルを、ワンピースの女性の脇に挟めた。
「何やってんだ?」
 無精ひげの男が、不思議そうに聞いた。
「本当はスポーツ飲料を飲ませたほうが一番いいんですけど、意識がまだ戻ってないようなので、動脈に当てて体を冷やそうと」
「じゃあ、私、もう一本買ってきます」
 小夜子は自販機まで急ぎ、同じスポーツ飲料を買った。
 それから程なくして、救急車が到着し、ワンピースの女性は病院へ搬送された。

 女性が病院へ搬送されてしばらくした後、駅のホームに一人の男性がやってきた。
「すいません! ここで女性が倒れたって!」
 スーツを着た、それなりに若い男性であった。
 相当急いできたのだろう。男性はずいぶんと汗をかき、息を切らしていた。
「先ほど、近くの病院へ送られましたよ」
 と、駅員が答えた。
「真鍋陸夫さんですね。五木さんのバイオリンを預かっています」
「あ、ありがとうございます!」
「いえ、お礼なら、あちらの五人にお願いします」
 言って、駅員は奥にいる男女のほうに手を向けた。

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